[ペンペン草]

「世紀末に母を思う」

Dec. 28th 2000

母のこと

ここ数年私の頭を離れなかった事・・・

ここ数年私の頭を離れなかった事に、母の身の振りかたがありました。
私の上にニ男一女、つまり私を含め四人の子供を育てた母・・・。

戦中戦後の子育てはそれは大変な事だったでしょう。
勿論同世代のどこの親たちもきっとそうであったように・・・。
そして、30年前私の父である夫と死別してからの孤独な生活・・・

そんな母の苦労を知っているからこそ、何とか余生を平穏にくらして欲しい・・・
ずっとそう思っていました。

バブル崩壊後の平成5年春、東京の小さな実家を売却し、新潟に呼び寄せました。
やがては同居しようと言う気もありましたが、取りあえず元気なうちはマンションで気ままに暮らせば良いと考え、 新潟では最も便利な土地「古町」の中心部に近い賃貸マンションでの生活がはじまりました。

家賃が月約10万円、母の貰う年金とほぼ同額です。
したがって、住居費以外の全ての生活費が持ち出しになりました。

さらに、この計画は平成元年ころの計画でしたから、「東京の小さな家」を売却してもかなりの金額になる上、 当時は高金利でMMCで有利にまわせば、7〜8%にもなる時代で、金利だけで悠々自適に暮らせる予定でした。

ところが、実際に動いた平成5年は「東京の小さな家」の価格もピーク時の3分の1程度に下がり、金利も1〜2%に下がっていました。
・・・じつは、その後両方ともさらに下がるのですが・・・

それでも、何とか順調にそれぞれの生活が軌道にのり、5年程が過ぎた一昨年、たまたま(銀行が改築工事で不便な場所に 移ったために)「預金を下ろして来て欲しい」と頼まれ、家内が行き通帳記入した所「?????」唖然としてしまいました。

銀行系のクレジットカード1枚と流通系のクレジットカード3枚、その何れもが毎月数十万単位で引き落とされていました。
生活費としては、その他に家賃と光熱費は自動引き落とし、食費は毎週現金で五万ずつ、月に20〜30万円を要していたのです。

調べてみると、洋服、靴、バッグなどを買っては、リサイクルショップに持ち込みお金になるのが楽しみだったようです。
今考えると「今月はリサイクルで15万円も入ったからお金いっぱい有るわ」などと言っていたのですから、その時点で気づくべきでした。

結果として、早急に誰かが同居して面倒を見るか、施設にお世話になるか・・・の選択を強いられる事となりました。

親は4人の子供を育てたが・・・

4人の子供は誰一人、たった一人の親も看てやれない

私も含め、当初は「いつでも必要が生じれば同居できるよ」っと言う筈であったが、現実にその事態になると、 なかなか建前通りには行かないものなのです。
因みに私自身を弁明させてもらえば、今家内の両親と二世帯住宅に同居しており、お母さんは車椅子生活、お父さんも 昨年脳梗塞で倒れ、いつ二人介護になってもおかしくない状況なのです。
住宅事情も悪く、母を呼び寄せてもとても専用の部屋を確保できる状況にない上、子供はまさにこれから受験期を迎えます。

勿論、昔は狭い家に何人も生活していましたから、その気があれば不可能ではありません。
ただ、逆にその気と建前だけで介護はできないのです。
きっと、兄や姉の家にもそれぞれの事情があるのでしょう。
さらに、昔から「孫の子守りなんて、まっぴらゴメン!!」っと言う人でしたから、子供の賛同が得られなかった事も 我が家が「面倒見」の立候補をしなかった、かなり大きな理由のひとつでした。

感謝!!感謝!!感謝!!

お役所仕事に初めて感謝・・・

私は今まで、およそお役所のやる事には批判的で、有り難いなどと思った事もありませんでした。
ところが今年、母を入れてもらうべき施設を物色していたところ、偶然にも母が自分で探してきた「ケアハウス」は私の想像を遥かに超えるすばらしいものでした。
「本当に有り難い」と感謝に堪えない気持ちで一杯です。
第3セクターの様ですから、「お役所」とも言いきれないのですが、充分配慮の行き届いた居室、施設、スタッフの方々・・・
おかげで、半ボケだった母がはつらつと生活を始め、ボランティア活動まで始めたと言います。
二十世紀の最後の最後、ここ数年の心の重荷が解けた・・・そんな気がします。



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