[ペンペン草]

みたび「いのち」

Feb. 25th 2001

路傍の花

家族の悲しみ

私が毎日通勤する道に、正月明け位からでしょうか花が供えられました。
良く見かける光景と言ってしまえばそれまでですが、きっと交通事故で肉親を失った人が供えているのでしょう。
毎日のように新しい花が供えられますが、花束の数だけ悲しみがあるような、そんな気がします。

新幹線に沿ったその道は見通しも良く、かなりのスピードで車が行き交っています。
私も45km程の通勤のため、ついついスピードを出してしまうところです。
花と一緒に缶ジュースなどが供えられている所を見ると、どうやら子供のようです。
人の命の重さに区別はありませんが、それでも子を持つ親として、亡くなった人が若ければ若いほど悲しみが大きいような気がします。

話は別ですが、昨年の夏休み子供の一年先輩がバイク事故でなくなりました。
バイク事故と言っても、昼間部活を終えて帰宅中の事故ですから、決して本人の過失が大きい事はあり得ません。つまり、もらい事故です。
先輩と言っても、私は殆ど面識も無かったのですが、この時ばかりはそのご家族の、そして本人の「無念」を思って泣きました。
去年のお盆の時に「喪に服す」と言って、1週間ほどネットに出てこなかった時が正にそのときでした。

命に不要なものなどない・・・

人が死ぬと悲しい

この世に生を受けて、だんだん成長し、やがて子供を育てて次世代に繋ぐ、・・・これは本能とかのレベルの話ではなく、 この世の全生物共通の自然の摂理なのです。
よく、意味無く長生きしても仕方が無いなどと言う人がいますが、命を保ち続ける事に既に意味がある、とは考えられないでしょうか
つまり、この世の中に意味の無い命、不要な命など無いのではないでしょうか。
たとえ、犯罪者でも・・・人に限らず全ての動植物、さらに細菌にいたるまで。
ただし、チョット矛盾するかも知れませんが、「自分の意思で他人を殺(あや)めた人=殺人者」は、他の人のもっとも大切なものを 奪ったのですから、死んで貰うのが相当でしょう。勿論、自分の意思意外で殺してしまった=事故の場合は話は別ですが。

自分の近しい人が無くなれば大いに悲しいし、それが子供だったりすればなおさらなのです。
ですから、人の命も自分の命も大切にする事が、そして我々は他の多くの生物の犠牲の上に生きている事を考え、 感謝し、無駄にしない事が大切なのではないでしょうか。

悲惨!!えひめ丸事故

結局なにもして差し上げられないが

こう書き進めてきて、思う事は「えひめ丸」事故の悲劇だ。
すでに事故から2週間以上が経過し、「無事」を確信しながら捜索を見守ってこられた、ご家族の方々・・・
「無事」を確信しながら、徐々に募る絶望感、この二週間は正に地獄の苦しみだったに違いありません。
前途有望な17才の若者、一家を支える働き盛り、最後の航海だった老通信士・・・
どの命だって、本人にも、ご家族にも掛け替えの無いたった一つの大切なものに違いありません。
絶望的な状況は百も承知の上で、あえて、奇跡的にどこかでご無事である事をお祈りせずにはいられません。



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